何通りもの人生

■ いく通りもの人生を歩く

僕はどうしても複数の人生を歩きたいと欲張ってしまう。 研究者でありながら、起業家でありたいし、デザイナーでありたいし、エンジニアでありたいし、誰かの家族、親でありたいし、友人でありたい。

私たちが住まう社会には、さまざまな形態の職業・キャリアが存在している。しかしどれも本質的には似通っているんじゃないかと思っている。

自分が言ってしまうのもなんだが、分けたがる人が多いように思う。抽象的なまま、概念のまま放置してあげれば、こんなにも世の中に分断は生まれなかったのかもしれない。

分けることによって、良さが可視化されたり、比較対象と比べて際立ったりする。分けるという行為そのものが価値だったりする。 でも実際、人も自然も、社会も構造物ですら移ろいゆく。 全てが緩やかに移ろいゆく、そんな世界で分け続ける必要はあるのだろうか。

僕は、あらゆる延長線上に自分の生を感じたい。 しかし時間は限られている 限られた時間の中で、どれだけの事を一心不乱にできるだろうか。 あと何回”没頭”できるのだろうか

かつて時間を忘れたいと強く望んだ。 その先に、集中が存在していた。 しかし中庸を超えて過剰になった時、時間の存在に囚われてしまった。何事も中庸が大切という事を、身で学んだ。

この経験を活かして、生活を律したいと思う。 複数の人生を同時に生きることはできる。

それは複数の演技を、同時並行で継続すること。 それは世界一安全な場所を見つけ、仮面を脱ぐ場所を確保すること。 それは環境を変え、自分を変えるということ。






次はもっと上手くやります。